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2016年12月22日−12月26日

週刊・休日


 

1.待ってました!!幻の音源と言われた、徳丸純子さんのベスト盤CD、速攻でゲット

2.袋を開けてみました。

3.

4.

5.中身は、歌詞カードと、写真はデビュー曲のシングルのジャケットが1枚だけ。

6.こちらが、実物のアナログシングル盤のデビュー曲のジャケット。本物は見開き式です

7.オリコントップ100に、チャートイン出来た唯一の作品、PICA−PICA

8.第3弾シングルのジャケット。この作品の作詞・作曲は、何と、大貫妙子さん。すごい作品だったのです。

9.ネガを探してみました。多数ありましたが、まずは、この写真から。

10.KBCラジオの生中継の公開放送。ホンダのディーラー前。実は、軽トラックの荷台の上。

11.後ろを良く見ると軽トラックの運転席側が見えています。当時、八女郡広川町の
「馬場ホンダ」と言うディーラーからの中継。KBCラジオの「およねばーちゃんの
歌謡広場」と言うランキング番組の中継コーナーでのゲスト出演の時に撮影。

12.昭和58年(1983年)11月18日撮影。「恋はシーソーゲーム」のレコードジャケットを見てみると
サインをした日付けが、残っています。「58’11 18」と書いてあります。この写真を撮影した日なので、
この時、サインをもらったのだと思います。感謝。感謝。
※当サイトに書いている内容、掲載している写真を管理人に無断で使用する事を堅く禁じます。



2016年12月22日−12月26日


年:二黒土星(じこくどせい) 丙申(ひのえさる) 五黄殺:北東/暗剣殺:南西/水火殺:なし 歳破:東北東
月:一白水星(いっぱくすいせい) 庚子(かのえ ね) 五黄殺:南/暗剣殺:北/水火殺:なし 月破:南
 
 
    週刊・休日


   12月22日(木)

   楽天市場キャンペーンにて
 楽天市場のキャンペーンで、ポイントが数倍になると言う事で、色々検索していると、
 徳丸純子さんのベスト盤がCD化されている事を知りました。
 これは、速攻で購入です。
 期間限定ポイントが、タップリ残っていたので、全て、期間限定ポイントで買う事が出来ました。



     徳丸純子 ゴールデン☆ベスト
 「徳丸純子 ゴールデン☆ベスト」が発売されたのは、2016年6月22日でした。
 全く知りませんでした。

 このような、80年代のB級アイドルと言われた、ブレイク出来なかったアイドル達の復刻盤は、すぐ、入手しないと
 売り切れてしまい、再度、プレミアム価格が付く事があります。

 偶然、見つけて良かったです。
 当然、迷わず、速攻で、オーダーしました。



   徳丸純子さん
 では、「徳丸純子さん」とは、どんなアイドルだったのか?です。
 あくまで、当時の自分の視点で知っている情報、自分が現場で、本人を見て、感じた事・・・・が中心になってしまいますが・・・

 まずは、当時、「TDKレコード」と言うレーベルが、新たに誕生しました。
 当時のTDKと言うと、一般的には、「カセットテープを作っている会社」と言うイメージを持っている人が多く、
 自分も、「カセットテープを買うなら、TDK、日立マクセル、SONYなどが安心」と言う認識を持っていました。
 それ位「TDK」=カセットテープの会社と言うイメージでした。

 当時は、カセットテープ以外にも、オープンリールテープなども作っていましたが、どちらにしても、磁気テープには
 性能的にも評価が高かった会社と言うイメージです。

 そのTDKが、レコード会社を作ったと言う事で、当時、話題になりました。
 そして、TDKレコード、第一弾アーティストとしてレコード番号1番でデビューしたのが、アイドル歌手の「新井薫子さん」でした。
 1982年3月21日発売。

 レコード番号としては、「T07S−1001」でしたが、これが、第1号のレコード番号でした。


  金の椅子オーディション
 そして、TDKレコードは、その後「金の椅子オーディション」を実施しました。
 次なるアイドルを、オーディションにより募集して、優勝者をデビューさせると言う企画でした。
 その「TDKレコード・金の椅子オーディション」の第1回グランプリになったのが、徳丸純子さんでした。

 そして、1983年3月21日、「聖・ファーストラブ」でTDKレコードからデビュー。
  TDKレコード所属の「アイドル」としては、2人目のデビューになりました。

 大分県出身、19**年生まれ。

 自分と同じ九州圏出身と言う事もあり、福岡の写真仲間の皆さんも、「応援してあげよう」と言う気運が高まっていました。


 デビュー曲の作詞は、阿久悠さん、作曲は、小杉保夫さん、編曲は、荻田光雄さんと言う作品でした。
 阿久悠さんは、既に、数え切れない程の大ヒット曲を作詞されている大先生でした。
 作曲の「小杉保夫さん」は、当時、既に、郷ひろみさんの代表曲の一つ「お嫁サンバ」の作曲家として、知られていました。
 他の小杉保夫さんの有名な作品としては、同じく、郷ひろみさんの「もういちど思春期」、
 早見優さんのデビューシングル「急いで!初恋」などがありました。

 しかし、全体的に、ポップス系のヒット曲より、アニメ系、NHKの用事番組系の作品が多いのと、
 あとは、CMソングなどを手掛ける事が多かったようです。

 クレヨンしんちゃんの「オラはにんきもの」オープニング主題歌は、小杉保夫さんの作曲だそうです。

 編曲の「荻田光雄さん」は、アレンジャーとして、あまりにも有名です。

 古くは、布施明さんの「シクラメンのかほり」や、
 山口百恵さんの作品や、南野陽子さんの作品は、代表曲、主要作品は、ほぼ、荻田光雄さんのアレンジ。

 太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」もアレンジ。
 岡田有希子さんの「ファースト・デイト」、「恋・はじめまして」もアレンジ。
 中森明菜さんの「少女A」「セカンド・ラヴ」「禁区」「飾りじゃないのよ、涙は」、
 中山美穂さんの「C」「BE−POP HIGH SCHOOL」などもアレンジ。
 売れっ子アレンジャーにお願いした作品でのデビューになりました。


  良くお逢いしたアイドル
 徳丸純子さんに関しては、とにかく、「生で見る回数が、非常に多かった」と言うアイドルです。

 福岡には、何度も、良く来ましたし、良く見に行っていました。
 写真も、数え切れない位、何度も、色々な所で、たくさん、撮っています。

 派手さのないアイドルでしたが、歌も、そんなに下手でもなく、声質もやわらかく、聴いていて心地良い気持ちになる
 歌手でしたが、残念な事に「アイドル不作の年」と言われている「1983年デビュー組」です。

 この年にデビューしたアイドル歌手は、ほとんどが、ブレイク出来ずに、終わってしまったのです。

 1982年デビュー組が、次々にトップ10入りを始めて、ブレイクしはじめたのが、1983年だったので、
 1983年にデビューした歌手の皆さんの「席」が、空かなかった・・・・と分析している人もいるようですが、
 それにしても、一人位、大ブレイクする歌手がいても良かったのに・・・と思います。

 でも、逆に、それが、「ファンに近いアイドル」でもあり続けている人が多く、ガードがゆるいと言うのか、
 出待ちしても、親切に対応してくれるし、写真もサインも自由にやってくれる歌手が多く、この当時に、これらの
 歌手の皆さんと交流したファンの皆さんは、恐らく、20年、30年経っても、その時の「恩(おん)」は
 忘れていないと思います。(自分も、忘れていない)

 実際、自分も、このように、復刻盤の発売を知ると、迷わず、速攻で、CDを購入して、「恩返し」です。

 
  
   アイドル歌手としての実績
 徳丸純子さんの、アイドル歌手としての実績ですが、デビュー曲の「聖・ファーストラブ」は、オリコントップ100には
 ランクイン出来ませんでした。

 101位〜200位の中に、数週間、入っていましたが、当時のオリコンは、101位以下は、「参考データ」としてしか
 発表しておらず、売り上げ実績としては、認められていませんでした。

 確か、120位代〜130位代が最高ランクだったと思います。


   オリコントップ100入りの壁
 徳丸純子さんの作品が、唯一、オリコンにチャートイン出来たのは、1983年6月21日発売の第二弾シングル、
 「PICA−PICA」です。

 作詞:阿久悠、作曲:いけたけし、編曲:荻田光雄

 作曲の「いけたけし」さん(現在は、「池 毅」表記)、自分は、全く知らず、調べてみると、
 ポップスの楽曲提供は、そんなに多くなく、有名な所では、工藤夕貴さんのデビュー曲「野生時代」程度。

 あとは、アニメの主題歌、挿入歌、ゲームの曲などを幅広く手がけているようです。

 この作品のメロディが、やたら、ゲーム・ミュージックっぽく、そして、はじけるように、明るくなれるのは
 この「いけたけし」さんが作っているからなのかもしれません。

 自分も、個人的には、徳丸純子さんの歴代シングルの中で、「PICA−PICA」が、一番好きな作品です。

 PICA−PICAは、オリコン最高99位を記録。
 念願の「オリコントップ100入り」を果たしました。

 オリコントップ100には、2週間ランクイン。
 売り上げ枚数は、4190枚。

 尚、2週間ランクインして、4190枚と言う事は、1週間当たり、当時の100位にギリギリランクインするには
 1週間で、2000枚前後を、売らなければ、100位圏内に入れなかったと言う時代です。

 他の「100位ギリギリ1週ランクイン」した作品を調べてみると、やはり、当時の100位ランクインのボーダーラインは、
 「1週間に、1500〜2000枚前後を売り上げる事」と言う時代だったようです。


   最近のオリコン
 では、最近のオリコンの売り上げは、どうなっているのか?と言うと、ネット上は50位までしか、実績枚数を
 無料で公開していませんので、実は、100位は何枚売れているのか?まで、わかりません。
 (有料会員になれば、見られますが、そこまで、コストは、かけたくないので、見ていない)

 無料で見られる50位の売り上げ枚数は、900〜1000枚前後。
 1980年代前半は、100位に入るのに、1500〜2000枚前後売らなければ、チャートイン出来なかったのに、
 2016年代は、その半分の1000枚を売り上げれば、50位前後にチャートイン出来ると言う事です。

 今と昔では、集計方法が違うし、今のように、「1枚単位の売り上げが、瞬時にネットで吸い上げられてわかる」と言う
 時代でもない。

 オリコン調査店のサンプル数も、大昔は、各県に固定で、1店舗、残りは、わずか、1店舗を、固定ではなく、
 ランダムに選ばれた店の売り上げをサンプルに加えていました。
 更に、「握手会」「レコード即売会」で、一気に数百枚を1日で売った場合、その売り上げは、カウントから外すと言う
 方針で、集計されていました。
 だから、あくまで、「推定売上枚数」と公表されていましたが、オリコンとしても、実数に近付ける為、
 社外秘の「係数」と言うのがあり、「サンプル数」×「係数」で、1週間の売り上げ枚数を、はじき出していたそうです。
 その「係数」が企業秘密ながら、実数を、ほぼ、正確に捉えていたと、言われています。
 その「係数」の「補正」には、当然、「レコード会社側の出荷枚数」も参考にされていたとの事です。

 レコード即売会・握手会での売り上げが、カウントから外されても、最終的には、「レコード会社側の出荷枚数」との
 補正により、実数を、捉えていたと言われています。

 
 極端な話、集計結果で、1週間に、1万枚、売り上げがあった言う結果が出たと仮定します。
 しかし、出荷枚数が、5000枚しかなかったら、どう考えても、何かがおかしいと言う事になります。
 出荷していないのに、なぜ、1万枚の売り上げの数字が出たのか?は、おかしい事になります。
 当時のオリコンは、そうやって、データの矛盾・不正などを、緻密に色々なデータを集めて、集計して、
 最終的に、チャートを発表していたと言われています。



   第3弾シングル以降
 結局、徳丸純子さんの作品は、PICA−PICA以外は、オリコントップ100には、入りませんでした。

 第3弾シングル「恋はシーソー・ゲーム」も、良い作品でしたが、デビュー曲路線に戻った感じでした。
 しかし、作家陣は、ガラリと変わりました。

 作詞・作曲、大貫妙子さん。編曲を清水信之さんに依頼。

 大貫妙子さんと言えば、山下達郎さん、村井邦男さんとシュガー・ベイブを結成。そのメンバーの一人です。

 その後、EPOさんがカバーして、「オレたちひょうきん族」のエンディング・テーマにもなった
 「DOWN TOWN」を発表しています。


 編曲の清水信之さんは、EPOの「う、ふ、ふ、ふ」などのアレンジや
 飯島真理さんの「愛・おぼえていますか」、
 池田聡さんの「モノクローム・ヴィーナス」、
 伊藤つかささんの「夕暮れ物語」、
 稲垣潤一さんの「クリスマスキャロルの頃には」「僕ならば、ここにいる」、
 岩崎良美さんの「愛してモナムール」、「ヴァカンス」、「マルガリータ・ガール」、「化粧なんて似合わない」、
 河合奈保子さんの「けんかをやめて」、
 竹内まりやさんの「不思議なピーチパイ」、
 高井麻巳子さんの「メロディ」、
 SMAPの「KANSHAして」、「セロリ」などのアレンジをやっている超・売れっ子アレンジャーです。 

 尚、清水信之さんは、平松愛理さんと結婚されましたが、2005年に離婚されているとの事。

 このような作家陣で臨んだ第3弾シングル。
 名作でしたが、時代が追い付いて来なかったようです。
 オリコントップ100にも、ランクイン出来ませんでした。


 自分の記憶にあるのは、第4弾シングルの「蒼いサスペンス」まで。
 第5弾シングルの「哀の心話」は、そのリリースも、タイトルさえも、ベスト盤を見るまで、知りませんでした。
 
 自分が、徳丸純子さんを生で見た最後は、「蒼いサスペンス」を歌っている時。

 博多どんたくなどのイベントで、博多駅前のステージで歌っているのを見たのが、最後だったと思います。
 自分は、第3弾シングルまでは、購入しましたが、第4弾シングルは、購入していません。

 第4弾シングルも、オリコントップ101〜200位に、ギリギリ、ランクインしましたが、
 薄っすらとした記憶だと、確か、180位前後に入ったと言う感じだったと思います。
 デビューからの3作より、もっと、実績は、落ちていたと思います。

 第5弾シングルに関しては、全く記憶にありません。
 ベスト盤のジャケット写真を見ると、路線変更したのかな・・・
 ちょっと、意外な気が・・・

 しかし、厳しい世界なのだな・・・と思います。


  
   復刻盤について
 徳丸純子さん、そして、同じTDKレコード所属だった、新井薫子さんに関しては、これまで、
 B級アイドルの復刻盤が、次々に発売されても、中々、復刻の情報が、ありませんでした。

 例えば、リリース作品数が少ないB級アイドルの場合、その歌手単体での「アルバムでの復刻盤」を
 発売するのが厳しい事があります。

 その場合は、オムニバス盤と言う形で、部分的に、1〜2曲が、選ばれて、復刻される事があります。
 例えば「アイドル・デビュー伝説」のように、デビュー曲だけを集めたオムニバス盤などが企画されます。

 又は、当時のレコード会社別で、発売される事があります。
 良くあるのが、「ビクターレコード所属アイドル」の作品を集めた3枚組アルバムとか、
 「コロンビア」「CBSソニー」「東芝EMI」「ワーナー・パイオニア」「テイチク」などが、
 同様の企画物のオムニバスアルバムを出しています。


   マスターテープ紛失疑惑
 しかし、当時、レーベル所属アーティスト数が少なかったレコード会社とか、
 そのレコード会社自体が、倒産してしまった場合、復刻盤の発売は、無理です。
 レーベルを越えた、企画物アルバムも、多数、復刻盤が出ていますが、レーベルがなくなった歌手の場合、
 マスター・テープが、どこかに紛失している事があるようで、もう、CD化は、絶望的でした。

 例えば、今は存在しない「ユピテル・レコード」からデビューした、「岡村有希子(のちに岡村佳枝)」さんは
 復刻盤が出ていません。

 色々ネットで検索すると、2作品だけ、かろうじて、レーベル越えの企画物アルバムに、収録されています。
 どこかにマスター・テープが、保存されていたのでしょうが、岡村有希子さん(岡村佳枝さん)単体での
 ベスト盤は、現在も、存在していません。

 今は、その企画物(オムニバス)アルバムさえ、入手不可能。
 (某・サイトで、定価の3倍程のプレミアム価格で、売りに出ていました)


 所が、TDKレコードの所属アーティストの復刻盤は、全く、目にする事がありませんでした。
 企画物アルバムへの1作品だけの収録と言うのも、これまで、必死に探しましたが、ありませんでした。
 「やはり、マスター・テープが、存在していないのかな・・・」と、あきらめていました。


 所が、ここに来て、突然、徳丸純子さんのゴールデン☆ベストが発売され、ビックリ。
 TDKレコードではなく、「コロンビアレコード」から、発売されていました。

 なぜ、コロンビアから?と言う疑問もありましたが、マスター・テープでも見つかったのでしょうか?

 とにかく、早速、購入して、聴いてみました。

 すると・・・


   悪い音質
     〜高音部分の音割れ〜

 徳丸純子さんの「徳丸純子 ゴールデン☆ベスト」、早速、聴いてみました。
 しかし、音質に関しては、大きな疑問符が付きました。

 まず、音質、かなり悪いです。

 具体的に言うと、高音部分が「割れて」います。
 これ、例えば、アナログ・レコードをプレーヤーで再生する時、「レコード針を使い過ぎた時」に
 高音が、割れてしまうのと、全く同じような音の割れ方をするのです。

 特に、歌声で言うと「し」が、一番、音の割れが目立ちます。
 「さ」「つ」「す」なども、同様に、音の割れが目立ちます。

 その他、全体的に「高音部分の音割れ」が、目立ちます。

 アルバム、全体を聴いてみると、どうやら、「アナログ・レコードから音を起こしているのではないか?」と
 言う感じがします。
 しかも、使ったレコード・プレーヤーの「レコード針」、かなり古い状態で。
 又は、使ったレコード盤の方の状態が、悪いのかもしれません。
 

   音揺れ
 ドーナツ盤(シングル盤)を再生する時、ドーナツ部分の中央の置き方が、少し、ズレると
 演奏時の長音(長く伸ばす音)が、若干、ワオンワオンと、揺れる事があります。

 一部の作品は、曲終わりの演奏の長音が、揺れているので、シングル盤から、音源を起こしているのか?と
 感じさせる作品がありました。

 アルバムのレコードから、シングル曲も、音を起こしているのであれば、音揺れは、ありえないと思います。


   レコード盤からの音源比較
 自分は、徳丸純子さんの、アナログシングル盤を3枚持っています。
 その内のPICA−PICAは、アナログ・レコード(シングル盤)から音を起こして、SDカードに入れて
 カー・ステレオで、再生出来るようにしていました。
 カー・ステレオで、CD盤で復刻された「PICA−PICA」と、聞き比べてみました。

 すると、自分が、シングル盤のアナログ・レコードから、SDカードに音を起こした方が、遙かに音がスッキリしており
 高音部分の音の割れもなく、ストレスなく、聴く事が出来ました。

 CDの方が、音が悪い。

 まだ、何度も、聴き込んでいないので、気付いていない部分がありますが、もしかすると、曲の途中で、
 「プチプチ」と、アナログ・レコードを再生する時の、ホコリを拾う音が入っているなら、このCDの音源は、
 マスター・テープから起こしておらず、アナログ・レコードを再生して、それを、音源に起こしているのだと思います。

 元々、TDKレコードと言うレーベルが、存在しないと言う事から、マスター・テープの存在に、大きな疑問を感じます。
 そして、もし、TDKレコードのマスター・テープが、どこかに保存されていたのであれば、新井薫子さんの
 ベスト盤の復刻が、あっても、不思議ではありません。

 しかし、今回の元・TDKレコード所属アーティストのベスト盤復刻は、徳丸純子さんだけ。
 新井薫子さんの作品も、レーベル越えの企画物オムニバス・アルバムへの1作品だけの収録と言うのを、自分は、
 まだ、見た事がないので、やはり、徳丸純子さんのCD復刻は、アナログ・レコードからの音源起こしなのか?と
 言う気がしています。

 ただ、これは、あくまで、素人の自分が、思っただけの話なので、実際は、どうなのか?わかりません。

 しかし、CD音源を聴いて、あまりにも、音が悪かったので、その点は、若干、残念でした。
 と言っても、音源を持っていない人、アナログ・レコードは持っていたけど、プレーヤーがなくなってしまい、
 再生出来なかった人には、ありがたいアルバムだと思います。

 販売価格も、税抜き2000円なので、ま、レコード起こしであっても、文句の出ないギリギリの所でしょう。
 この価格だったら、自分も、レコード起こしでも、ま、ギリギリ許容します。

 自分が、レコード盤さえ持っていなかった、第4弾シングル「蒼いサスペンス」、第5弾シングル「哀の心話」の
 音源を入手出来ましたので、それには感謝です。


   写真を探してみた
 徳丸純子さんのベスト盤を購入したので、自分が、過去に撮影した、徳丸純子さんの写真を、探してみました。
 徳丸純子さんの写真は、あまりにも、たくさん、撮影したので、デジタル化するのに、どれを選べば良いのか?
 逆に、迷いました。

 そんな中、今回は、ひとまず、昭和58年(1983年)11月18日に撮影した写真を、デジタル化してみました。


   KBCラジオ公開放送
 見つけた写真を撮影した時の事、ハッキリ思い出す事が出来ました。
 撮影場所は、福岡県八女郡(やめぐん)広川町(ひろかわまち)にある、「馬場(ばば)ホンダ」です。

 現在は、「HONDA Cars広川(ひろかわ)」として、お店は、当時と同じ場所に、現存しています。
 経営母体も「馬場ホンダ」のままのようです。
 (このエリアは「馬場」と言う苗字が多い)

 現在は、九州自動車道路の「広川(ひろかわ)インターチェンジ」を出て、国道3号線に入り、熊本方面に
 進むと、すぐ右手に見えるので、場所の説明も、わかりやすい所にあります。

 撮影当時は、まだ、「広川インター・チェンジ」と言うのが、存在していませんでした。

 なぜ、ここに徳丸純子さんが来たのか?それは、当時、KBCラジオで土曜日の午後に放送されていた、
 歌謡ランキング番組の中での1コーナーの生中継の為に、来たのです。


   「およねばーちゃんの歌謡広場」
 「およねばーちゃんの歌謡広場」と言うコーナーがありました。
 これは、九州の有名人「ばってん荒川さん」が、色々なイベント会場などから、中継を行うと言うコーナー。
 
 関東圏の人に、わかりやすく言うなら、TBSラジオ、平日午前の中継コーナー「毒蝮三太夫さん」の
 「中継」をイメージすれば良いと思います。
 中継に集まった人が年配中心なので、「ばばあ」などと呼ぶ事が、逆に定番になっており、人気のコーナーです。
 
 「ばってん荒川さん」の場合は、集まった人を「ばばあ」とは呼びませんでしたが、中継コーナーは人気でした。

 「ばってん荒川さん」と言うと、当時、九州圏では、絶大なる知名度を誇る、ローカルタレントの一人でした。
 しかも、男性ながら、普段は、おばあちゃんの格好をしていると言う事で、そのおばあちゃん具合いが、人気でした。

 今で言うと、「おねえタレント」と、若いのに、おばあちゃん役が上手かった「樹木希林」さんや、「研ナオコ」さんを
 MIXさせたような存在でした。

 全国区では、志村けんさんの「おばあちゃん役」が、絶妙に上手い事で有名でしたが、志村けんさんが、ドリフのコントで
 演じるおばあちゃん役は、だいたい、腰が曲がって、つえをついて、耳が遠いおばあちゃんを描いている事が多い。

 それに対して、「ばってん荒川さん」の「おばあちゃん役」は、志村けんさんの「おばあちゃん像」と違い、
 「元気な、おばあちゃん」を演出していました。

 「ばってん荒川さん」が演じる、おばあちゃんの事を、「およねばーちゃん」と呼んでいました。
 ※本名が、米嵜一馬(よねざき かずま)の為、「米(よね)」から、「およねばーちゃん」と呼ばれた。

 この「歌謡広場」のコーナーゲストに、時々、アイドル歌手が来る事があり、この日、徳丸純子さんが
 ゲストと言う事で、行きました。


   格好良いばってん荒川さん
 中継の生放送時間は、約30分。
 でも、中継前のリハーサルなども、ありました。
 ばってん荒川さんも、本番前に出て来て、お客さんに前説などを行っていました。
 しかし、休憩時間になると、横の控え室ゾーンに移動しているのですが、その姿が、ものすごく
 格好良かったのを、覚えています。

 格好は、ラジオの中継であっても、きちんと、「およねばーちゃん」の女装をしていました。
 とても、顔の大きな方でしたが、休憩中、タバコを吸う姿が、ものすごく、格好良かったのを、
 ハッキリと覚えています。
 その時の姿は、完璧に「男」でした。
 男としての格好良さが、ガンガン、出ているのです。

 そして、本番に合わせて、ステージに戻ると、スィッチが、きちんと切り替わり、およねばーちゃんの姿に
 完璧に切り替わる。

 当時、おねえタレントなど、ほぼ、いない時代でしたので、このスィッチの入れ方のすごさにも、感動しましたし
 良い意味でのガラッと、変わる部分を見て、「格好良い」「本物の芸人だ」「プロの仕事って、これなんだ」と
 言うのを、感じた事を、強烈に、覚えています。

 残念だったのは、そのばってん荒川さんの写真を、1枚も撮っていない事。
 今となっては、ばってん荒川さんの写真、撮っていなかった後悔の方が、大きいです。
 尚、ばってん荒川さんは、2006年10月、膀胱癌の為、69歳の若さで、亡くなられています。


   軽トラック荷台ステージ
 そして、ゲストの徳丸純子さんを交えての生中継が始まりました。
 当然、本人の持ち歌を、数曲、じっくり歌ってくれました。
 この時は、第3弾シングル「恋はシーソー・ゲーム」を発売して、約1ヶ月後でした。

 中継会場が、ホンダのディーラー。
 恐らく、新車の発売展示会のフェアなどを行っている関係で、ディーラーからの中継になったと思います。
 久留米駅から、八女(やめ)方面に、かなり向かった所にあるディーラーなので、集まった客さんも、
 ほとんどおらず、ゆったり見る事が出来た記憶があります。

 軽トラックを置いて、その荷台の上に、敷物を敷いて、そこをステージにしていました。
 
 自分が持っている「恋はシーソー・ゲーム」のレコード・ジャケットを見ると、徳丸純子さんが
 サインしてくれた時に、「S58 ’11 18」と書いてくれています。
 つまり、「昭和58年(1983年)11月18日」にサインしてくれたと言う事です。

 このKBCラジオの中継の日と一致するので、この時に、サインしてくれたのだと思います。

 感謝感謝。

 徳丸純子さんに関しては、まだ、書きたいエピソードがありますが、それは、写真を見つけて
 別の機会に紹介したいと思います。

  尚、このホンダのディーラー、現在も、残存しています。
 時々、このディーラー前を通過する事がありますが、毎回、「確か、この店舗で
 徳丸純子さんの写真を撮ったと思うけどな・・・」と思っていました。

 このネガを発見した事で、やはり、「ここの販売店で、徳丸純子さんを撮影したんだ」と言う事が
 わかりました。



   他の徳丸純子さん
 他の場所で撮影した、徳丸純子さんの写真、探してみました。

   昭和58年(1983)年9月25日撮影
 背景に「恋はシーソー・ゲーム」のポスターが貼ってあるので、「恋はシーソー・ゲーム」の
 発表会&レコード即売会&サイン会&握手会のようなイベントだと思います。

 室内撮影の場合、ストロボを使う事が多かったのですが、この日、撮影した写真を見ると
 本人の振り付けによる、手をあげたポーズのコマ、全て、横から当たった照明の影が、顔にかぶっていました。
 と言う事は、この日、自分は、ストロボを使っていません。
 そして、照明を、別の所から、あてていたと言う事になります。
 
 そんな場所、あったかな・・・
 雰囲気としては、香椎ダイエーのエスカレーター前の1階広場とか・・・
 あとは、ビブレの室内イベント場、ビブレ・ホールか?
 それとも、全く違う場所か?
 うーん・・・どこなのか?思い出せません。


   昭和58年(1983)年5月3日撮影
 博多どんたくのステージです。
 背景を見ると、「RKBラジオ(TBS系列局)」の「ビバ!どんたく!」と書いてあります。
 博多どんたくの特別番組を、生中継していたのだと思います。

 この時の徳丸純子さんは、まだ、デビューシングル、「聖・ファーストラブ」を発売したばかりの状態。
 服装も、「聖・ファーストラブ」の衣装を着てます。

 この時は、他に、武田久美子さん、大沢逸美さん、倉田まり子さんが、ゲストでした。

 多分、この時、武田久美子さん見たさに、多くの人が集まっていたと思います。
 1983年デビュー組で、この時点で、岩井小百合さんと共に、チャート的にも、健闘していました。
 ただ、あと1歩が足りず、沈んで行くのですが・・・
 
 大沢逸美さんは、ホリプロ・タレント・スカウト・キャラバンで優勝し、デビュー。
 「IT’S ME」とレコードジャケットに書いてあったなぁ・・・

 デビュー曲は、山口百恵さんを意識して、「作詞:阿木燿子」「作曲:宇崎竜童」のコンビ作品でデビュー。
 ボーイッシュなイメージでデビューしましたが、チャート的には、いま一つでした。


 倉田まり子さんは、この時点では、大先輩の歌手。1976年デビューですから。

 当時、ハイファイ・セットが歌ってヒットした荒井由実作品、「冷たい雨」を、カバーしたシングルを出していた為、
 この時、雨ではなかったのに、演出の関係で、傘をさして、歌っていました。

 このステージは、恐らく、他のステージを色々見てまわった関係で、自分は、あまり良い撮影ポジションを
 確保出来なかったのだと思います。
 だから、レンズには、2倍テレコンバーターを装着して、強引に、倍率を上げて、撮っているようです。
 全てのコマの解像度、顔の輪郭が、ボーッとなっています。
 更に、ステージの場所が、高いビルのすき間に設置されており、太陽が雲に隠れていると、かなり暗くしか
 撮れない状態でした。

 撮影環境は、最悪の中、撮っているようです。

 ただ、一度にたくさんお歌手の皆さんを見られると言うのは、ありがたかったです。

    
   プロモーションの場
 このように、「博多どんたく」は、芸能界でも、当時、「新人歌手をデビューさせて、最初の
 プロモーションの重要なお祭り」と、位置付けられていました。

 当時のアイドルは、だいたい、5月3日〜4日に博多どんたくに出演。
 その後、新幹線に乗って、5月5日に、「広島フラワー・フェスティバル」に出演すると言うのが、
 「新人・顔売りのプロモーション定番コース」と言われていました。

 当時も、現在も、「博多どんたく」は、「ゴールデン・ウィーク、日本国内最大の人手で賑わう大きな祭りと
 言われていますので、3月21日〜4月21日前後にデビューする事が多かった、当時のアイドル歌手には
 重要なお祭りでした。

 迎え入れる「福岡」の人達も、ここで、新人を、一気に大量に見られる事で、非常に、ありがたいお祭りでした。

 今は、昔ほど、大物のアイドル歌手は、来なくなりましたし、ある程度、知名度がある歌手が来ると、
 すぐ「撮影禁止」のフダが上がるようになり、つまらなくなりました。
 コンサートではなくても、撮影禁止だったり、つまらない。
 こんな事するから、CDも売れなくなるんですよ。

 昔は、写真、撮り放題だったのに・・・


   徳丸純子さん初回撮影ネガ発見
   昭和53年(1983年)2月11日撮影
 そして、徳丸純子さんを、初めて撮影した時のネガを発見しました。
 
 撮影日:昭和58年(1983年)2月11日
 撮影場所:天神コア屋上
 撮影イベント:デビュー前のデビュー曲披露発表会

 2月11日と言うのは、祝日です。
 朝から、天神コア屋上の入口前に、写真仲間と、並んでいました。
 並んでいたのは、顔見知りのアイドル写真撮影仲間ばかりで、5〜6名程度だったと思います。

 すると、スタッフと思われる男性と、若い女性スタッフっぽい人が、我々の並んでいる横を
 スリ抜けて、一般入場口から、屋上に、入って行きました。

 通常、天神コア屋上で、新曲発表会を行う歌手の皆さんは、どれだけ売れていなくても、
 専用の入口と控室があり、我々、一般人が出入りする口からは入って行く事が、ありませんでした。
 だから、最初、この「スリ抜けて、中に入っていった男女」は、スタッフ・関係者だと思っていました。

 しかし、写真仲間が通り過ぎた後に、言いました。
 「あの女の子が、徳丸純子さん、本人だよ。」と。
 
 徳丸純子さんの最初のイメージは、この時の事が、強烈に、記憶に残っています。
 あまりにも自然で、気取った所がなく、大人しいイメージでした。

 撮影したのが、2月11日。
 デビュー日が、3月21日ですから、デビュー1ヶ月以上前に、福岡の皆さんに、お披露目発表会を
 行っていた事になります。

 大ブレイクして欲しかったなぁ・・・

 現在は、シアトルに住んでいると言う噂もあるようですが・・・


   武田久美子さん
 同じネガの並びに、武田久美子さんの写真も残っていました。

 撮影日:昭和58年(1983年)2月5日
 撮影場所:ビブレホール(天神コア隣接建物)
 撮影イベント:デビュー曲発表会

 
 この時の事は、よく覚えています。
 近藤真彦さん主演映画「ハイティーン・ブギ」の「momoco役」として、一気に話題になり
 キス・シーンがあると言う事で、当時の近藤真彦さんのファンから、武田久美子さんの事務所宛に、
 「カミソリ入りの手紙」などが、大量に送り付けられた・・・と言う事が、大きな話題になる位、
 武田久美子さんに、スポットが当たりました。

 そして、その話題性の熱も冷めないタイミングで、歌手デビューが決定。
 デビュー時点で、まだ、中学生だった事も話題になりました。

 その、話題の武田久美子さんが、「福岡」に、新曲発表キャンペーンにやって来ると言う事で、
 福岡でも、大きな話題になりました。


   テレビCMスポットの威力
 しかも、当時、夕方のテレビ番組(ドラマの再放送時間帯)に、本人のデビュー曲のCMが流れ、
 字幕では、「ビブレホールに、2月5日に、やって来る」と言うスポットを、何度も打っていました。

 テレビの威力は、絶大でした。
 「アイドルキャンペーン情報」は、ある程度、情報を、集めなければ、どの歌手が、いつ、どこに来ると
 言う事が、わからないのに、テレビスポットを何度も流したため、たいして、芸能界や、アイドルに
 興味のない人まで「2月5日に、天神のビブレ・ホールに武田久美子さんが来る」と言う情報が
 知れ渡ってしまう状況になりました。


   入場券
 尚、このイベントに参加するには、当時、天神コアの中にあったレコード屋「サウンド・ヒロカネ」で
 レコードを予約、又は、購入しないと、入場できないと言う「制限」がありました。
 (サウンド・ヒロカネは、もしかすると、ビブレ側にあったかもしれないが、天神コアとビブレは
 ビルが、引っ付いており、境目が、わかりにくく、どちらにあったのか?覚えていません)

 所が、テレビCMスポットを、ガンガン流したため、そのような制限がある事を、知らないで
 集まった人が、大勢、押し寄せました。

 当時、このイベントの司会をしたのは、RKB(TBS系列)のアナウンサーでしたが、
 そのアナウンサーが「今日、武田久美子さんを、ひと目見たいために、長崎県から、いらっしゃった方も
 いました。本当は、入場券がなければ、入れないのですが、遠くから、いらした方の為に、
 特別に、ご覧頂いています」と言う主旨の事を、説明したと思います。

 だからなのか?会場は、ギューギュー詰め状態でした。


   一番いい時
 この日は「土曜日」でした。
 自分は、このようなイベントに行く為に、学校をさぼると言う事は、一切、やっていなかった為、
 学校が終わって、必死で、天神のビブレに向かいました。

 入場券を持っていた為、会場には、入る事が出来たものの、既に、朝早くから並んでいる人が多く、
 場所は、後ろの方。
 おまけに、ビブレホールと言う、天井が低くて、狭くて、暗い会場だった為、ストロボの光も
 本人には、届くかどうか?微妙な位置。

 結局、あまり良い写真は、撮れなかったと言う記憶があります。


 尚、この時、RKBのアナウンサーが、オリコンの最新情報を、ファンの皆さんに発表しました。
 「月曜日付け(2月7日付け)オリコン・シングル・チャートで、デビュー曲「噂になってもいい」が
 初登場14位に、確定しました!!」

 このように発表。
 本人も「ありがとうございます」と言ってましたし、集まったファンの皆さんからも
 大きな拍手が湧きあがりました。

 当時は、当然、「その翌週には、軽くジャンプアップして、オリコントップ10入りし、大ヒットするだろう」と
 誰もが思いました。

 しかし、実際は、この「初登場14位」が、武田久美子さんの「歌手」としての実績では、
 「一番いい瞬間」でした。

 この時が、歌手としてのピークだったのですね・・・

 そんな事、当時、現場に集まっていたファンの皆さんも、スタッフ・関係者の皆さんも、誰も、思わなかったでしょう。

 やはり、アイドル歌手と言うのは、どうなって行くのか?
 芸能の「プロ」の皆さんだって、誰も、予測出来ないのだな・・・と思います。


   アイドル不作の年
 これだけデビュー前から、大きな話題になって、知名度も、抜群だった武田久美子さんであっても
 「アイドル不作の年」の呪縛に、縛られてしまった・・・・と言う事だと思います。
 1983年デビューの呪い、恐ろしい・・・・何が原因なのでしょうか?
 

 ※噂になってもいい
 1983年1月25日発売
 オリコン最高 14位。売上げ枚数 88,570枚。オリコントップ100ランクイン数 10週。
 作詞:来生(きすぎ)えつこ 作曲:加藤和彦 編曲:清水信之


 ※シャワー・ホリデー
 1983年5月25日発売。
 オリコン最高 26位。売上げ枚数 38,850枚。オリコントップ100ランクイン数 7週。
 作詞:売野雅勇 作曲:小田裕一郎 編曲:鷺巣詩郎


 でも、現在も、形を変え、芸能界で活躍されているので、うれしいです。
 しかも、お子様、フィギュア・スケート、やっているようですし。
 何かのイベントのゲストとか、呼んだら来てくれないかなぁ。



   ネガの汚れ
 それにしても、ネガの汚れ、傷、ゴミ、すごいな・・・

 ゴミに関しては、ある程度、時間をかけて、丁寧に、ゴミ取りして、データ読み込みすれば良いのですが、
 汚れに関しては、ネガに傷を増やしたくないので、あまり、強引な作業が出来ません。

 ま、写真プリントする事は、ほとんど、ないでしょう。
 こうやって、時々、デジタル化して、懐かしむ程度でしょう。
 汚れは、ある程度、我慢しかありません。


 

つづく。

12−2.

14.昭和58年(1983年)9月25日撮影。場所は不明。香椎ダイエーの室内広場か?

15.

16.

17.博多どんたくのステージにて。この時は、あまり良く撮れていません。

18.RKBラジオ(TBS系列局)の公開生放送のステージにて。1983年5月3日撮影。

19.同じステージには武田久美子さんも出演されていました。

20.RKBラジオ、ビバ!どんたく!と言う特別番組の公開生放送だったのですね。後方を見て確認。

21.この時点で、他の1983年デビュー組の中で、岩井小百合さんと二人、チャート的には、健闘して
いましたが、いま一つ、そこから先が伸びませんでした。

22.同じ1983年デビュー組の大沢逸美さんも出演。
ホリプロ・タレント・スカウト・キャラバンでグランプリを獲得してのデビューでした。

23.倉田まり子さんも出演。

24.当時、「冷たい雨」(荒井由実作詞・作曲)を歌っており演出上の都合で傘をさしました

25
.徳丸純子さんを、初めて撮影した時のネガも、見つかりました。

26.昭和58年(1983年)2月11日撮影。天神コア屋上です。

27.

28.

29.

30.

31.

32.

33.

34.同じネガの中に、武田久美子さんを最初に撮った時の写真もありました。

35.昭和58年(1983年)2月5日撮影。会場、大パニック状態でした。

36.

37.前の人の頭が入るので、それを避けると横位置のこんな写真しか撮れませんでした

38.人の頭を避けて撮れたと思ったら、思いっきり目つぶりだし・・・

39.「噂になってもいい」が最高ランクでした。

40.個人的には、第2弾シングル、「シャワー・ホリデー」が、お気に入り。今でも時々再生

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