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2016年12月2日−12月4日

週刊・休日


 

1.日曜日の朝の三浦は、冬の定番、北東の風が入っています。伊豆半島だけ南の風です。
これが、午後に到達し、午後は南の風で吹き上がりました。さすが、三浦です。

2.午前10時、風速計では全滅ながら、実際のライブカメラでは北東系が吹いてます。
さすが、三浦マジック

3.本栖湖。それなりに海面が風で流れていますが、弱そう。雪は完全に解けました。
南系。プレーニング出来るのかも。でも、誰もいないので、どれ位吹いているのかな?
わかりません。アマゾンのCM犬は、今日もいるのでしょう。きっと。

4.年末・クリスマス商戦など、ギフトの季節になり、再び、アマゾンの「犬」が登場する
CMが何度も流れ始めました。これは、バージョン−1。
このシーンから始まらないパターンもあります。

5.外で遊ぶ親子。

6.部屋に戻り、ワンちゃんが、赤ちゃんに近付きますが・・・

7.子供は、犬を怖がり、泣いてしまいます。

8.僕、好かれていないんだ・・・と、淋しそうな表情をする犬。

9.Uターンして、遠くで一人(1匹)ポツンと離れて、遠くから、親子を見守る事に・・・
淋しいな・・・

10.赤ちゃんは、ライオンのぬいぐるみは、お気に入りの様子。
CMパターン−2は、このシーンから始まるバージョンもあります。

11.父親、ひらめきます。

12.そして、アマゾンで、ある物を購入。当日配送で注文した所が、このCMのミソ。
※当サイトに書いている内容、掲載している写真を管理人に無断で使用する事を堅く禁じます。



2016年12月2日−12月4日


年:二黒土星(じこくどせい) 丙申(ひのえさる) 五黄殺:北東/暗剣殺:南西/水火殺:なし 歳破:東北東
月:二黒土星(じこくどせい) 己亥(つちのと い) 五黄殺:北東/暗剣殺:南西/水火殺:なし 月破:南南東

 
 
 
 
    週刊・休日


   12月4日(日)



   日曜日の風
 さて、日曜日です。
 天気の良い日曜日。でも、それなりに寒くなりました。
 もう、海・湖には、寒くて行けません。
 三浦のウィンド・サーファーの姿を色々なサイトで見ると、もう、平地でも、ドライ・スーツを着ています。
 もう、自分は、ウィンド・サーフィンに関しては、冬眠です。

 でも、気になる風。一応、チェックしました。
 三浦は、冬の定番、北東の風が朝から吹いています。
 午前10時過ぎには、灯台の風速計が、無風になっているのに、ライブ・カメラを見ると、旗がきちんと揺れています。
 さすが、三浦マジック。

 更に、午後になると、北東の風が終わったのに、今度は、こんなに寒いのに、南西系の風がきっちり入り、南西系の風でも
 プレーニングしていました。三浦って、すごいですね。

 一方、本栖湖は・・
 良くわかりませんが、朝から、ベタ凪ではありませんでした。
 南系の風が、それなりに入っているように見えますが、どれ位の風速なのか?全く、わかりません。
 さすがに、出艇している人の姿は、自分がライブカメラを見ている時間には、ありませんでした。

 でも、あのアマゾンCM犬は、いるのだろうな・・・



   アマゾンCM犬
 一時期、CMが流れなくなっていた、犬が登場するアマゾンのCM。
 しかし、この週末に限っては、再び、犬が登場するアマゾンのCMが、バンバン、流れていました。

 尚、このCM、自分が気付いた範囲だけでも、2パターン存在しています。

 以前、確認したのは、バージョン−2のようです。

 ここの所、流れているのは、バージョン−1が増えました。
 バージョン−1は、赤ちゃんが、親と一緒に、外で遊んでいるシーンから始まるパターン。
 そして、犬が、赤ちゃんに近付くと、赤ちゃんは、泣いてしまうのです。

 この「泣く」シーンが、バージョン−2では、カットされています。
 
 個人的には、この「泣く」シーンがないと、より一層、このCMの意味が、伝わりにくいかも・・・と思いました。

 ま、バージョン−1でも、バージョン−2でも、印象に残る、ほのぼのCMで、いやされますけどね。

 このアマゾンCM犬、まだまだ、本栖湖に、通っているのでしょうね。きっと。


  
   ネガから写真プリント
 この日、実は、30年以上前に撮影した写真を、ネガから、プリントしてみようと思い、
 写真を物色してみました。
 
 写真は、実家の引っ越しで、捨てられており、残っていない。
 ネガの一部が、奇跡的に残っているのでした。
 しかし、もう、時代はデジタルカメラ、デジタルデータです。

 ネガを見て、ピントが合っているのか?露出が合っているのか?などを虫メガネのような物で必死に見て
 カメラ屋さんに持って行って・・・と言う手間は、もう、やりたくなかったので、全く、手を付けておらず
 押し入れの奥に、眠っていました。

 しかし、あるテレビ番組を見たのが、きっかけて、数枚、試しに、ネガ・プリントしてみる事にしました。


   爆報THEフライデー
 2016年12月2日(金)にTBSで放送された、爆報THEフライデー。
 この番組で、昭和の伝説のアイドル、岡田有希子さんの話題が、出るとの事で、録画しておきました。

 「情報解禁」とか、「過去に公表されていなかった新事実が・・・」などの番宣にひかれて、見てみましたが・・・


 内容に関しては、リアルタイム世代の自分には、既に、ほぼ、知っている内容でした。
 ガッカリ。

 遺書が公開される・・・とか、ドラマで共演した俳優さんの事などが、もっと、具体的に、何かわかるのか?と
 思ったのですが、特に、新たな情報は、ありませんでした。

 逆に、自分の方が、テレビなどで、報道されなかった細かい事、知っている状態。
 当時、必死に情報集めましたから。
 
 唯一、知らなかったのは、岡田有希子さんの資料が、ある外国人に持ち去られていたと言う部分です。
 ただ、それも、ご本人が、大切に保管していたとの事でした。

 持ち去られていた資料の一部の中の映像が紹介されましたが、ま、自己紹介しているVTRが少し流れた程度。
 あとは、当時の堀越学園の同窓生が4名集まった映像も出ました。

 これに関しては、以前、別の番組で、南野陽子さんを中心にして、取り扱われていたので、
 それに付随した続編的に、自分は、情報を取り込む程度でした。


   リアルタイム世代
 自分は、岡田有希子さんに関しては、デビュー前のイベントから、その後、デビュー後も、何度も
 写真撮影させてもらいましたし、本人から、サインも頂きました。

 深々と挨拶する姿は、とても礼儀正しく、そして、とても「まじめ」で、頭の良い人と言う印象でした。
 当然、自分は、超・お気に入りになり、ファンクラブにも加入。
 レコードも、積極的に、購入していました。
 ザ・ベストテンにも、リクエストハガキ、書きました。

 当時は、色々なアイドルの皆さんの写真を撮りに、あちこち、イベントに出掛けていましたが、
 それぞれ、当時見たアイドルの皆さん、実は、堀越学園で、同じクラスだった・・・と言う事が
 20年、30年経過した、バラエティ番組や、このような番組で、知りました。

 当時は、そんなこと、全く知らなかった・・・

 例えば、岡田有希子さんと、同じクラスだった同級生は、田中久美さん、岡村有希子さん、本田美奈子さん、
 菊地陽子さん、石野陽子さん、長山洋子さん、南野陽子さん、高部知子さん、松本友里さん、松尾久美子さん、
 河上幸恵さん、倉沢淳美さん、宮崎ますみさん、桑田靖子さん、永瀬正敏さんなどなど・・・
 「ようこ」と言う名前、多かったのだな・・・

 自分は、このクラスのメンバーの内、覚えているだけで、9名には、直接、逢っている事になります。
 しかも、ほぼ、福岡で逢っています。
 

    歌手として 
 そして、歌手デビューは、同じサンミュージック所属で、岡田有希子さんより、1年早かった、桑田靖子さんが
 事務所も同じで、歌手としての先輩ながら、プライベートでは、同級生だったのですね。
 複雑な関係だな・・・と思います。

 自分は、歌手としての視点でしか、この二人を見ていなかったので、桑田靖子さんは、岡田有希子さんの
 事務所の1年先輩・・・と言う認識でしたが、本人達は、学校では、同じクラス、同窓生・クラスメイトだったのですね。

 また、「殺意のバカンス」で1985年にデビューし、「1986年のマリリン」で大ブレイクした、
 本田美奈子さんも、堀越学園のクラスメイト。
 デビューは、岡田有希子さんより、1年遅い、1985年デビュー組。

 南野陽子さんも、1984年に女優デビューし、歌手デビューは、1985年。
 歌手として、ブレイクしたのは、1986年。

 皆さん、同学年の同じクラスメイトだったとは、全く知りませんでした。

 また、このクラスの中には、倉沢淳美(くらさわ あつみ)さんと、高部知子さんがいます。
 この二人、「欽ちゃんの、どこまでやるの?(通称・欽どこ)」と言うテレビ朝日の番組で、
 「のぞみ・かなえ・たまえ」の3姉妹として、「わらべ」と言うグループ名でユニットを組み、
 歌手デビューしています。
 「めだかの兄妹」と言う作品が、大ヒットしました。

 のぞみ役が、高部知子さん。かなえ役が、倉沢淳美さんでした。

 のぞみ役の高部知子さんは、当時、不良を演じる「積木くずし」と言う番組に出演。
 演技のすごさが評価され、視聴率も、40%を越えていました。

 しかし、ある日、色々な誤解があって、残念な報道をされ、大騒ぎになり、結局、欽ちゃんファミリーとしては、
 めったにない「スキャンダル」と言う形で、芸能活動を、自粛するしか、ありませんでした。
 
 自分は、あの時、事務所などが、もっと、毅然とした態度で、対応していれば、こんな事にならなかったと思うのですが・・・

 本人は、あどけない高校生。高校生で、あの重圧に耐えるのには、本当に、大変だったと思います。

 倉沢淳美さんは、その後も、「わらべ」として活動。
 第二弾シングル「もしも、明日が・・・」は、高部知子さんが不在だった為、「かなえ・たまえ」に見栄晴(みえはる)と
 お母さん役の、真野順子さんを加える形で、歌う事もありました。
 「もしも、明日が・・・」は、90万枚を超える大ヒット。

 1984年には、「プロフィール」と言う作品で、ソロ・デビューし、ソロでも、トップ10入りを果たす活躍をしていました。

 その頃、高部知子さんは、自粛状態。
 でも、学校では、クラスメイトで、逢っていたと言う事なのですね・・・
 そんな関係、全然、考えた事もありませんでした。


 自分は、当時、そんなクラスメイト達との「関係」も知らず、歌手デビューの年度で、「先輩・後輩」として、見ていました。

 でも、その渦中にいるアイドル歌手の皆さん、私生活のクラスメイトが、仕事の現場に行くと、
 先輩・後輩の関係になり、非常に、複雑な環境の中で、過ごしていたのだな・・・と思うと、
 やはり、15歳〜19歳前後の多感な世代には、過酷で、難しい世界だな・・・と思いました。

 しかも、当時の給料などを、暴露する歌手の皆さんがいますが、事務所によっては、ものすごく低賃金。

 更に、歌手デビューしている場合は、ヒット・チャートの順位で、「売れている」「売れていない」が、
 露骨に「数字」として、誰の目にも、わかってしまうのです。
 同じクラス・メートなのに、一方は、日本のトップクラスの歌手達と、肩を並べる位に、売れている人もいれば、
 一方は、オリコントップ100にも、ランクイン出来ていない・・・

 しかも、デビューが、「1年早い人」であっても、売り上げは、「1年後輩のクラスメイト」の方が、一気に
 売れてしまった・・・とか。

 この微妙な関係を、自分の人生で重ね合わせてみると、どんな感じなのだろうか?と思います。


 今のアイドルの皆さんも、このような複雑な関係で、過酷な世界で、生きているのか…と思うと、
 やはり、根性が座っていないと、生き残って行けないのかな・・・と思いました。


   昔の写真
 と言う事で、当時、撮影した写真のネガ。
 面倒くさすぎて、押し入れの奥に、ずっと、眠っていましたが、この番組を見て、当時のアイドルの皆さんの写真を
 試しに、数枚、写真プリントしてみる事にしました。


   完全に忘れている
 ネガは、ある程度、整理されていました。
 そして、ネガを見るだけでも、驚きの連続でした。

 きちんと撮影日を記録しているネガが多かった事に、まず、ビックリ。
 そして、自分は、「この人、写真を撮った記憶、完全になかった」と言う人の写真を
 撮っていた事にも驚きました。

 沖田浩之さんを撮った記憶は、全くなかったのですが、撮っていた事に驚き。

 チャゲ&飛鳥 に関しては、ラジオの公開録音のようなイベントで「見た」記憶は、薄っすら残っていたものの
 写真を撮っている記憶がなかったので、「よく撮っていたな」と驚きました。

 と言う事で、写真プリントのサイズは、近所の「写真クラブ」で、皆さんと写真を見せ合う時に使おうと思い、
 思い切って、「A4サイズ」に、大きく引き伸ばしてみる事にしました。

 どうなるのでしょう・・・


   買い物ついでに
 そして、ネガから写真プリントが出来る店を調べて、お店にネガを持って行きました。

 約2時間で、印刷が完了するとの事で、合計6枚を選び、プリントをお願いしました。
 カメラのキタムラでA4プリントをお願いすると、3枚以上のプリントで、1枚当たり、400円になります。
 デジタルプリントでも、ネガプリントでも、このサービスは、同じでした。


 2時間と言うと、一旦、帰宅するには、中途半端な時間。
 ショッピング・モールで過ごして、時間つぶししました。
 本屋で立ち読みしたり、マクドナルドで食事したり・・・
 そして、2時間後にお店に行ってみると・・・

 「全く手をつけられていない」と言う状態でした。
 普段の自分なら、ここで、それなりに文句言います。

 しかし、この日のお店の状況を見ると、充分、納得行きました。
 次々に、年賀状印刷を依頼に来る人がいました。
 なるほどー、そんな時期なのですね。

 先日、郵便物の再配達でも、モメ事がありましたが、配達系や、このような「季節もの」を取り扱う店は
 てんてこ舞いなのだと言う事が、良くわかりました。

 怒ったからと言って、すぐ、プリントが仕上がる訳もないし、忙しい時に、適当に、作業されるより
 時間のある時にじっくり、写真選定・調整・補正してもらった方が良いので、
 「では、今日中に出来なくても良いですし、時間に余裕のある時に、プリントしておいて下さい。
 出来たら、電話して下さい。」と言って、一旦、帰宅しました。

 その後、夜になっても、電話は、来ませんでした。

 ただ、このような事は、良く忘れられるし、この日のような状態では、バタバタで、こちらに、
 電話する余裕もなく、それさえも、忘れているだろうと思い、午後7時過ぎに、こちらから
 電話してみました。

 すると、「出来ている・・・」との事で、午後7時30分過ぎに、取りに行きました。

 電話連絡さえも、忘れている・・・

 でも、怒っても仕方ないし、最近、この手の約束事は、「忘れられるのが当たり前」と思う事にしたので、
 たいして、腹が立つ事もなく、夜の気分転換にもなったので、ゆっくり、出掛けました。

 移動の為の交通費は、EV車系なので、短距離往復においては、ガソリンを使わない。
 2往復しても、交通費のコストは、数十円。
 腹が立ちません。


   時の河を越えて
 そして、A4に引き伸ばした写真、確認してみましたが・・・
 うーん・・・どの写真も、ほぼ、33年振りに、ネガからプリントしましたが・・・

 すると・・・色あせしている写真がありました。
 そして、画像全体に、緑色の斑点がある写真もありました。

 傷が若干付いている写真もありました。

 あとは、この写真は、アナログ一眼レフカメラで撮っている事と、当時は、メーカー純正望遠レンズなどは
 とても買えない学生時代だったので、レンズの性能も、いま一つ。
 解像度も、いま一つ。

 だから、どの写真も、顔の輪郭が、ボヤーッとしています。

 やはり、33年と言う時間が経過すると、フィルムの性能や、現像時点での現像の技術も重要だったのだな・・・
 と言う事がわかりました。


   フィルム
 当時は、フジカラー、サクラカラー、コダックと言う3社がフィルムの中心でした。
 恐らく、フジカラーを使う事が多かったと思います。

 色あせや、カビ状の斑点が付いているフィルムは、フジカラーを使っても、当時、安売りしていた他社の
 フィルムでも、変わりませんでした。

 保存状態によって、違ったのかもしれません。

 あとは、現像を、どこにお願いしたのか?で、左右されたのかもしれません。

 当時は、ネガから、「プリント」する時の「印画紙」や、印刷する技術の方が、重視されていました。
 だから、当時は「サクラカラー・100年プリント」と言うサービスがありました。
 100年経過しても、色あせないと言う意味です。

 しかし、今回、33年前のネガの中に入っていた、当時、Lサイズにプリントしてあった写真を見てみると、
 どの印画紙の印刷物も、「色あせ」は、全くありませんでした。
 100年プリントではない、通常プリントでも、色の変色は、ありませんでした。

 逆に、ネガの方が、劣化して、カビが付着している・・
 こちらの方が、重要だったのか・・・
 33年後にプリントして、わかりました。
 ま、今後、フィルムで写真撮影する事は、ありませんけどね。


  6枚の写真
 そして、今回、試しにプリントした、6枚の写真、じっくり、確認してみました。
 撮影当時の思い出が、よみがえりましたので、当時のエピソードを記してみる事にします。


  
  1枚目:沖田浩之(おきた ひろゆき)さん

  昭和58年(1983年)10月9日撮影
  撮影場所:福岡市内 天神(てんじん):新天町(しんてんちょう)の特設ステージ。

  当時、「まつり天神」と言うお祭りが、10月頃に、開催されていました。
  新天町(しんてんちょう)が主催して、TNC(テレビ西日本)が、からんでいた(と、思われる)ので、
  TNCのテレビ公開録画なども、行われていました。
  結構、色々な歌手が来るので、色々な歌手の写真を撮影しました。

  ※当時の主催者の関係は、当時、学生だった自分には、良くわかりませんので間違っている場合は
   正しい情報を、各自、確認すれば良いと思います。

 

    菊地陽子さん
  この日のネガを見ると、他のゲストとして、「菊地陽子さん」もいました。
  今回、プリントしませんでしたが、菊地陽子さんも、岡田有希子さんと、クラス・メイトだったのですね。
  尚、菊地陽子さんは、その後、若くして、病死されています。
  (1999年12月、白血病のため、32歳の若さで亡くなっています) 

  自分は、菊地陽子さんから、サインを頂いた事がありますが、当時としては、まだ、めずらしかった
  「左きき」でサインされていたので、それを見て「あれっ?左ききなんですね。自分も、左ききなんです。
  うれしいですね。」と会話したのを、覚えています。

  尚、菊地陽子さんのプロフィールを見ると「特技」の一つに「スケート」と書いてありました。
  そうだったんだ・・・2度うれしい・・・

  菊地陽子さんは、1983年デビュー組。
  「風色タッチ」、「ねがわくば・・・Kiス」などのシングルを発売しましたが、
  残念ながら、オリコントップ100には、チャートイン出来ませんでした。  


    記憶になかった
  沖田浩之さんを、この時、撮影していた事は、記憶の中に、全く残っていませんでした。
  ネガを見つけて、「うわー、撮ってるんだ・・・」と思い出した次第。

  尚、沖田浩之さんは、竹の子族として、原宿で踊っていた所をスカウトされ、芸能界デビュー。
  その後、「3年B組・金八先生 第二シリーズ」に出演し、ツッパリ役で人気になりました。

  そして、1981年3月21日「E気持」でデビュー。
  オリコン最高8位を記録。ベストテン番組にもランクインしました。

  その後、無念の最高11位となってしまった、第二弾シングル「半熟期」では、アイリーン・キャラの
  「Fame」を、バリバリにパクったアレンジでリリース。
  
  2コーラス目で、いきなり、転調する、めずらしい作品の第三弾シングル「はみだしチャンピオン」では、
  チョコレートのCMソングとして大量オンエアー。でも、オリコン最高26位。

  本人出演のTBSドラマ「ひまわりの歌」の挿入歌にもなった、イントロが、やたら格好良い
  第四弾シングル「俺をよろしく」は、オリコン最高32位。
  シングルのヒットは、デビュー曲以外、ベストテン入り出来ませんでしたが、名作・迷作を多数、残しました。
  


    ひまわりの歌
  尚、TBSドラマ「ひまわりの歌」では、ホリプロタレントスカウトキャラバン第5回グランプリとして
  歌手デビューした「林紀恵(はやし のりえ)」さんと共演。
  この「ひまわりの歌」には、他に、宇津井健さん、中原理恵さん、伴淳三郎(ばん・じゅんざぶろう)さん、
  中村雅俊さんなどが出演。


    心の色
  このドラマの主題歌は、中村雅俊さんの「心の色」。
  「心の色」は、大ヒットしました。
  (1981年11月25日発売。オリコン最高1位。売上げ枚数697,440枚)

  しかし、このドラマの撮影中、主要キャストの一人「伴淳三郎さん」が、病死。
  第4話までは、伴淳三郎さんが、出演。第5話からは、「松村達雄さん」が演じました。


    パクリ
  その後、「隠れアムール」、「熱風王子」、「気絶するほど悩ましい(チャーの作品のカバー)」、
  「とりあえずボディ・トーク」、「困ったラブ・ソング」、「お前にマラリア」、「冬のライオン」とリリース。

  「熱風王子」は、ロッド・スチュワートの「燃えろ青春」のバリバリのパクリ。
  「困ったラブ・ソング」は、ABCの「Look of Love」の、バリバリのパクリ。

  聞き比べてみると、笑えます。

  この写真を撮影した時は、「お前にマラリア(1983年8月25日発売・オリコン最高85位)」を
  リリースした後の時代。
  
  まさか、撮っているとは、思いませんでした。

  しかし、沖田浩之さんは、1999年、36歳と言う若さで、亡くなってしまいました。

 
   2枚目:岩崎良美(いわさき よしみ)さん

  昭和58年(1983年)10月10日撮影
  撮影場所:宮地嶽神社(みやじだけじんじゃ):KBCラジオ公開放送の特設ステージ。
 
  この日は、KBCラジオ(KBC九州朝日放送=テレビ朝日系列、キー局のテレビ朝日は、ラジオ局を
  持っていないのに、福岡のKBC九州朝日放送は、AMラジオ局を持っている)の公開放送でした。

  他に、松居直美さん、沖田浩之さんが出演。
  沖田浩之さんは、この1日前に、まつり天神でも、撮影していましたが、この日は、違う衣装で登場していました。
 

    松居直美さん
  松居直美さんは、この時点で、「欽ドン、良い子・悪い子・普通の子」のシリーズの新コーナー、
  「良いOL、悪いOL、普通のOL」の「普通のOL」に抜擢され、一気に知名度を上げ、大活躍中でした。

  当時の松居直美さんは、欽ドン人気でリリースしたシングル、「微妙なとこネ」がオリコン最高25位を記録。
  (1983年3月3日発売。オリコン最高25位。売り上げ枚数84,760枚)

  その前後にリリースした作品は、オリコントップ100には、入りませんでしたが、
  この日は、他に、チェッカーズの「ギザギザハートの子守歌」をカバーしてリリースした作品を歌いました。

  その曲の途中の間奏では、「ムーン・ウォーク」を披露。盛り上げていました。
  欽ちゃん番組に出ていたので、トーク術は、抜群。笑いも、バンバン、取っていました。

  「良いOL、悪いOL、普通のOL」で結成した番組企画ユニット「よせなべトリオ」では、
  堂々のオリコントップ10入りを果たしています。

  (大きな恋の物語/よせなべトリオ。1982年8月5日発売。
  オリコン最高8位。売り上げ枚数168,390枚)  

  松居直美さんは、現在でも、関東圏では「フジテレビ」の日曜日の朝6時30分〜7時までの30分番組、
  「早く起きた朝は・・・」に、磯野貴理子さん、森尾由美さんと3名で、レギュラー出演されています。


  さて、岩崎良美さんは、当時、尾崎亜美さん作品の「月の浜辺」(オリコン最高47位)を歌っていた時代です。
  この時点で、シングルを14枚リリース。

  この時点での最大のヒット曲は、第二弾シングル「涼風(すずかぜ)」でした。
  この作品、ザ・ベストテンでは、2週間、ベストテン入り出来たものの、オリコンの最高順位は、18位。
  その後も、オリコンの最高順位は、思った程伸びず、20位代〜40位代の最高順位の作品が続きました。

  そして、1985年3月21日に発売した第20弾シングル「タッチ」がアニメの主題歌と言う事もあり、
  最大のヒット曲、そして、代表曲になりました。

  と言っても、オリコンでは、トップ10入りできず、オリコン最高12位。
  売り上げ枚数は、246,640枚を記録。
  尚、この年の「レコード大賞・金賞」を受賞しています。

  岩崎良美さんが、念願のオリコントップ10入りを果たしたのは、1985年10月16日に発売した、
  第21弾シングル「愛がひとりぼっち」。
  オリコン最高10位。売り上げ枚数 159,830枚。
  こちらの作品も、アニメ主題歌として、ヒット。

  この写真を撮影したのは、まだ、「タッチ」が世に出る前の時代です。


   3枚目/4枚目:中森明菜(なかもり あきな)さん

  昭和58年(1983年)10月16日撮影
  撮影場所:長崎県長崎市(恐らく、長崎市民会館だと思われる)
       NBC長崎放送のラジオ公開放送のステージ。
 


    大物にワクワク
  撮影した当時、既に、ビッグ・スターとして、君臨していた中森明菜さん。
  当時は、丁度、「禁区」をリリースし、大ヒット中でした。

  今から思えば、良く、写真撮れたな・・・と思います。
  座席位置が、かなり、右寄りだったので、正面から撮れなかったのが、残念。
    
  この日は、ラジオの公開録音だったと思いますが、他に「武田久美子さん」がゲストとして登場しました。


    武田久美子さん
  今回、写真プリントは、やっていませんが、武田久美子さんの姿も懐かしく思い出しました。
  武田久美子さんは、この年、1983年1月25日、「噂になってもいい」で、歌手デビュー。オリコン最高14位を記録。

  その後、「シャワー・ホリデー」(5月25日発売、オリコン最高26位)、
  「びんかん・・・してます」(8月24日発売、オリコン最高49位)と、シングルをリリース。
  デビュー当時は、中学生でした。

  元々は、近藤真彦さん主演の映画「ハイティーン・ブギ」の恋人役として抜擢され、一躍脚光を浴び、その流れで、
  歌手デビューをしました。
  所が、歌唱力には、大きな疑問符を付ける皆さんが多かったと言うのが、正直な所。

  歌手として、活躍したのは、翌年リリースの「夢の飛行船」(1984年5月10日発売、オリコン最高79位)辺りまで。
  
  多くの人に認識されている武田久美子さんと言うのは、現代の多くの皆さんは、
  「水着の代わりに、貝殻を使って撮った写真の姿」ではないかと思います。

  そして、今は、「美のカリスマ」としても、年齢を感じさせないスーパーモデル的な美貌をキープしている事で、
  同世代の女性達からも、絶大なる支持を得られています。
  ある意味、「吉永さゆり」さん⇒「由美かおる」さんに続く、⇒次の世代の「年齢を感じさせない美女」ではないかと思います。 

  先日、あるトーク番組で、武田久美子さんの娘さんが、フィギュア・スケートをやっている話をしていました。
  スケート場への送迎や、スケートリンクの貸切り時間の関係で、早朝や深夜に送迎しなければならない事がある・・・
  などの話をされていて、同じ氷上のスポーツをやっている自分には、その事情が、よーくわかり、ものすごく
  親近感がわきました。


    
    衣装替え
  ネガを確認してみると、中森明菜さんは、途中で、衣装替えして、2種類の衣装で、数曲、歌ってくれていたようです。
  
  1着目は、黄色い明るい色の衣装。
  「トワイライト」の時の衣装が、このような雰囲気だったので、もしかすると、「トワイライト」の時に着た衣装かもしれません。 
 
  黒い色の衣装は、「禁区」の衣装。

  当時はフィルムのISO感度が、高感度でも「ISO400」がめいいっぱい。
 (当時は、ISOと言わず、ASA(アーサー)400と呼んでいた)。
  
  元々、暗い照明のステージでしたが、衣装も、暗めの黒ベース。
  あまり、良い写真は、撮れませんでしたが、当時でも、大物だった中森明菜さんのステージを撮影出来ただけでも、
  うれしかったのを、覚えています。

  ※トワイライト
   第5弾シングル。
   1983年6月1日発売。オリコン最高2位。売り上げ枚数 429,610枚。

  
  ※禁区
   第6弾シングル。
   1983年9月7日発売。オリコン最高1位。売り上げ枚数 511,000枚。


  写真は、2枚、チョイスしたものの、黄色い衣装の方は、選んだ写真のピントが甘く、失敗。
  Lサイズの写真が残っていたので、そちらでは、ピントの甘さが、わかりませんでした。
  ネガでは、ピントが、合っているのか?合っていないのか?が、良くわからないので、引き伸ばしてみないと、
  わからないと言うのが、昭和のアナログ技術の名残りだな・・・と思います。



    5枚目:岡田有希子(おかだ ゆきこ)さん

  昭和59年(1984年)4月2日撮影
  撮影場所:福岡・全日空ホテル(現:ANAクラウンプラザホテル福岡)3階 飛鳥の間
 


    デビュー前イベント
  「サンミュージックから、今年(1984年)デビューする新人アイドル歌手は、ものすごいらしい」と
  言う噂は、アイドル写真仲間の間で、早くから、耳に入っていました。

  しかも、所属レコード会社は「キャニオン・レコード」。
  「サンミュージック」「キャニオン・レコード」と聞いただけで、「これは、かなり本気で売り出すだろう」と
  言う事は、わかりました。

  そして、デビュー前イベントと言うのを行うのも、異例でした。
  更に、そのデビュー前イベントの会場が、「ホテル」の、きちんとした「広間」を貸し切って、行われると言うのも
  異例でした。
  しかも、地方都市の「福岡」で、このようなスタイルでのデビュー前イベントを行うと言うのは、
  かなり、経費がかかっていると思います。

  自分は、この時点までで、たくさんのアイドル歌手の写真を撮り、色々なイベント、キャンペーン、
  新曲発表会、握手会、公開放送などに参加していました。
  
  しかし、このようなスタイルで、ファンの皆さんに、事前ふれあい会を実施するイベントは、初めての出来事でした。

  当時の自分は、高校生でしたが、高校生でも、ホテルの広間に入る事が出来ました。
  入場料は、無料。
  会場は、ディナー・ショーのように、丸テーブルが、多数、並んでいて、着席すると、ホテルの従業員の方が
  ケーキと紅茶を持って来てくれました。

  参加者全員に、ケーキと紅茶が、無料で、ふるまわれたのです。
  更に、参加者には、岡田有希子さんの、デビューまでを描いた、本格的に刷られたマンガ本が、無料で配られました。

  いたれり、つくせりでした。

  そんな中、登場した岡田有希子さんは、期待通りの、キラキラ輝くアイドルでした。
  深くお辞儀をする姿に、感動。
  発売前のデビュー曲を歌ってくれたと思いますが、イベントの内容は、全く覚えていません。
  いや、少し、薄っすら、思い出しました。

  デビュー曲は、竹内まりやさんにお願いしたと言う事。
  河合奈保子さんにあこがれている事。
  河合奈保子さんの絵を描いた事。
  絵を描くのが得意である事など、紹介していました。
  通常は、同じ事務所の先輩を「尊敬する先輩」「目標とする歌手」「憧れの先輩」として、
  発言させる事が多いのですが、そこは、事務所の枠のしがらみなく、発言させていたのは
  サンミュージックの社風が、比較的、自由だったのかもしれません。

  ちなみに、歌手としては、同じ事務所の1年先輩としてのデビューをしていた
  桑田靖子さんは、目標とする歌手を「岩崎宏美さん」と言っていたため、この点、
  本人の意思を、ある程度、尊重してくれていたのかな・・・と感じました。

  通常なら、サンミュージックには、当時、桜田淳子さん、松田聖子さんと言う
  超・スーパー大物の2大巨頭が君臨していましたので、この2名の名前を「言わせて」も
  良いし、言わせても、不思議ではなかったのに、そこは、あえて、「事務所の大物先輩はずし」を
  許容したと言う点は、本人達も、息苦しくない事務所だったのではないか・・・と憶測します。
  (この部分は、あくまで、憶測であり、当時の自分が、勝手に感じただけの感想。
   実態は、違ったとしても、自分には、良くわかりません。追及したい方は、実際、当時の現場
   にいた方から、直接、確認されれば良いのではないかと思います)



  その後、自分は、当然、岡田有希子さんのレコードは、積極的に購入しました。
  ザ・ベストテンへのリクエスト・ハガキも、出しました。

  最初の頃は、良く、福岡にもイベントや、キャンペーンで来ていたので、積極的に、行きました。
  岡田有希子さんに関しては、本当に、何度も、ご本人の姿を生で見て、写真も、あちこちで、多数、撮影しました。
  サインも頂きました。

  しかし、実家に置いていたそれらの資料、家の建て替えの時、強制的に、こちらの断りなしに、捨てられており、
  残っていません。

  かろうじて、押し入れの奥に保管していた、ネガが見つかり、今回、約32〜33年ぶりに、プリントして再会出来ました。


    運勢
  しかし、この写真を撮影した、約2年後、残念な事になるとは、夢にも思いませんでした。
  尚、岡田有希子さんと言う芸名は、ある占い師が名付けたと言う事で、以前、ザ・トップテンにも、
  その名付け親の占い師が、一緒に出ていました。

  最初の数年、勢い良く走り出せる名前にした・・・と説明していました。
  しかし、その「最初の数年」だけ、勢い良くても、その後は、どうなるの?と、個人的には、感じました。


  別の占い師は、著書で、岡田有希子さんの運勢を、次のように分析していました。
 
  ★デビューした年は、12年周期の中で、3年連続で続く「大殺界」が始まった「陰影(いんえい)」。
   八方ふさがりと言われる、最悪の年「停止」は1985年。この年は、トップ10ヒットを次々に飛ばしたので
  「停止」とは正反対の運気になっています。
   だったら、占いなんて、当たってないではないか・・・と、思う人も多いと思います。
  尚、岡田有希子さんの場合、10年ごとに巡って来る違う運気が、16歳の時から、「光美星」に支配されています。
  恐らく、その影響が、上手くプラスに作用したのでしょう。

  そして、「占い師」に姓名判断で、名付けてもらった「名前」のパワーで、何とか、上手く乗り切っていたのでしょう。

  しかし、1986年、3年続く大殺界の3年目、最後の年、オリコン・シングルチャートで1位を獲得したものの
  「減退(げんたい)」の年に、亡くなってしまいました。

  全て「大殺界の3年間の中」で始まり、終わりました。
  デビューし、大活躍して、高校を卒業して、引っ越しした直後、亡くなっています。
 

   姓名判断
  尚、姓名判断で、最初の数年、勢い良くスタート出来るような名前にした・・・と、トップテンに出演した
  占い師が言ってました。

  念の為、自分で鑑定してみると・・・星まわりは、バランスがよい名前でした。
  所が、社会運、家庭運、総格とも、全て、女性の場合は、凶運の画数でした。
 
  社会運19画は、波乱の多い凶運数。(岡田有希子さんの社会運は19画です)

  「幸福で満たされたと思ったのもつかの間、一瞬にして失意のどん底に落ちたり、浮き沈みの激しい画数」だそうです。
  まさに、ピッタリになってしまったのです。
   
  家庭運は21画。男性は、頭領運数と言って、大吉ですが、女性の場合は、離婚したり、未亡人になりやすい凶運数。
  総格は29画。こちらも、男性の場合は、頭領運数の中で、最高の画数。しかし、女性は、凶運。
  女性の29画は、恋人が出来ても、仕事優先で、結婚が難しい。結婚出来たとしても家庭内離婚や、未亡人になっている人が
  多い画数。

  だそうです。
  どうして、姓名判断の先生は、この部分を見逃してしまったのだろうか・・・謎です。


  これなら、本名デビューの方が、断然良かったのです。
  本名は、「佐藤佳代」さん。
  星まわりも、バランス良く、欠けや多過ぎる星がない。

  ただし、社会運36画=凶運数。
  他人からの頼み事を断り切れず、後悔する事が多い凶運数。保証人になって家族を泣かせたり・・・の画数。

  家庭運34画=凶運数。
  不運な災難の続く凶運数です。トラブルが絶えず、心休まる時はないでしょう。

  と、本名の画数も、あまり良くありません。

  しかし、「総格41画=大吉」です。
  幸福をもたらす仁徳のある大吉運数です。社会的に、功績が認められます。人望も厚く実力者として成功を収めるでしょう。

  と言う結果になりました。


  なるほどー。

  
  デビュー日も、本来は、3月21日が多かった時代に、1ヶ月遅れの4月21日。
  「421」は「死に行く」とも読めるので、デビュー日が悪かったとも・・・

  ただ、全く同じ、1984年4月21日にデビューした、「菊池桃子さん」は、現在も、活躍中なので、
  デビュー日が悪いと言うのは、あてはまりません。

  と言っても、岡田有希子さんの場合は、本人の運気が「大殺界の陰影」の年での4月21日デビューと言う事で、
  確かに、良くない要素が、重なっており、回避出来なかったのか?と、思います。

  当時のサンミュージックの事務所があった場所も、「四ツ谷」です。
  「四ツ谷」では、色々な現象を見てしまう人も多く、四ツ谷に放送局があった文化放送でも、色々な伝説があるそうです。

  歌手デビュー直後、事務所から、四ツ谷のマンションの部屋を与えられた、某・アイドル歌手N・Tさんは、
  あまりの心霊現象の多さに、困った・・・と、語っています。

  尚、岡田有希子さんのマネージャーだった、M氏は、その後、酒井法子さんのマネージャーになりました。
  しかし、数年後、四ツ谷の事務所で、首つり自殺しています。
  
  堀越学園の同期(同級生)には、この時点で、4名が、若くして亡くなっています。
  菊地陽子さん、本田美奈子さんが、白血病で亡くなりました。
  松本友里(ゆうり)さんは、マツケンサンバで有名な、松平健さんと、結婚されましたが、自殺。
  
 
  わずか2年弱の活動でしたが、ファンの自分にも、たくさんの楽しい想い出を残してくれました。

  もし、岡田有希子さんが生きていたら、どうなっていたのかな・・・
  自分は、デビュー日が全く同じで、世代も、ほぼ同じ「菊池桃子さん」を見ると、「このような感じで
  活躍していたのかな・・・」と思う事があります。
 (菊池桃子さんは、1968年生まれなので、岡田有希子さんより1学年下)

  また、違う時に撮影した写真のネガ、探して、プリントしてみようと思います。



     6枚目:チャゲ&飛鳥

  昭和58年(1983年)3月30日撮影
  撮影場所:福岡市民会館 KBCラジオの公開録音だったと思われる
 


    ラジオ公開放送
  この写真、良く撮っていたな・・と思います。
  チャゲ&飛鳥の他に、松本伊代さんも、ゲストで来ていました。
  しかし、暗いホールだった上に、座席位置も悪く、まともな写真が撮れていませんでした。
  当時、持っていたレンズの解像度の性能の限界もあり、大きく引き伸ばすと、
  顔の輪郭が、ピンボケ状態になりました。

  当時のカメラの性能、フィルムのISO感度(ASA感度)など、全ての条件が
  厳しい状態でした。
    

    松本伊代さん
  この時の松本伊代さんは、第6弾シングル「チャイニーズ・キッス(1983年3月3日発売、
  オリコン最高12位)」を発売した後で、当時、チャイニーズ・キッスの衣装を着て、
  歌っていました。

  
    ただいま〜
  チャゲ&飛鳥の二人は、「福岡出身」と言う事もあり、地元での公開放送と言う事で、
  集まったファンの反応も良く「ただいま〜って言えるのは、福岡だけなんですよねー。」と
  飛鳥さんが言っていたのを、鮮明に覚えています。

  当時のチャゲ&飛鳥は、第7弾シングル、「北風物語(1982年10月27日発売、
  オリコン最高27位)をリリースしていた時代。
  この直後の4月23日に、第8弾シングル「マリオネット(オリコン最高38位)」が
  リリースされる予定と言う状況でした。

  ここまでのチャゲ&飛鳥のチャートイン実績としては、第3弾シングル
  「万里の河(1980年9月25日発売、オリコン最高6位 売り上げ枚数537,420枚)」と言う
  メガ・ヒットが生まれていましたが、その後のシングル・ヒットは、なし。

  アルバムは、安定して、それなりに売れており、当時のニュー・ミュージック・アーティストに多かった、
  「シングルのヒットを狙う事には、重点を置かず、アルバムと、コンサートを中心に活動する」と言う
  スタイルで、やっていたのだと思います。

  従って、まだ、ファンとの距離も近く、大物と言う雰囲気は、当時は、ありませんでした。
  
  その後、「シングルでも、ヒット曲を出そう」と言う事で、積極的に露出を増やし、
  「モーニング・ムーン」が、ザ・ベストテン、ザ・トップテンにランクイン。
  (モーニング・ムーンは、1986年2月5日発売の第14弾シングル。
  オリコンの記録としては、無念の最高11位。売り上げ枚数 161,230枚)
  
  その後、代表曲となる、「SAY YES」が誕生するのは、1991年。
  この写真を撮った、1983年3月30日に、そのような日がやって来るとは、
  全く予測出来ませんでした。

  その後、更なる色々な展開になるとは・・・それも、予測出来ませんでした。

  帽子とサングラスをかけていないチャゲさんの姿も、今となっては、貴重です。

  撮った記憶が、全くなかったので、奇跡の1枚です。


  と言う事で、6枚の写真。
 
   現代のデジタルカメラの画質に比べると、ピントの精度は、甘いし、
  露出も、フィルムの劣化による色あせが加わって、いま一つですが、それでも、
  思い出と、時の経過による「重み」は、増したのかもしれません。

  今後も、昔のネガから、プリントしてみようと思います。





つづく。

12−2.赤ちゃんお気に入りのライオンのぬいぐるみのように飾ってみました。
赤ちゃんは、どう反応するのでしょうか?

14.すると、赤ちゃんは、怖がっていた犬に近付いて、コミュニケーション成功。と言うCM
パターン−1は、ここまでで終わり。

15.パターン−2は、これ以降、少しシーンが続きます

16.パターン−2は、このシーンもあります。似合うかな?

17.父親が、飾りを外し、自分で付けてみる・・・と、ここまでが、パターン−2。

18.今日も本栖湖にいるのかな?

19.さて、今日は、写真プリントをお願いする為に、出掛けました。

20.

21.今日は、富士山、きれいに見えました。

22.富士山と一緒に、記念撮影。

23.

24.EVバッテリーは、少し減りました。

25
ネガから写真プリントをやってみたのです。どれも30年以上前のネガです
店員さんには、ネガを入れている袋が「1984年ロサンゼルスオリンピックのマスコット
が描かれていて、ビックリした」と言われました。自分は、そのような所、全く気にして
いませんでしたが、人によって、見る所が違うのだな・・・と思いました。

26.富士山、まだ、見えました。実は、最初「2時間でプリントが仕上がる」と言われた為、同じ敷地内で
買い物したり、本屋に立ち寄ったり、マクドナルドでハンバーガー食べたりして、時間を過ごしました。
2時間後に行くと、「全く手を付けられていない」と言う状態。
この日は年賀状印刷のお客さんが次々来たそうです。仕方なく、一旦、帰宅する事に・・・

27.一旦、帰宅。

28.夜、再度、写真屋に行き、仕上がり写真を受け取りました。

29.2往復して、EVバッテリー、残り半分以下に。短距離移動なので、暖房使用。

30.A4サイズに引き伸ばしてみました。30年以上前のネガからの引き伸ばしは、かなり厳しかったです。

31.緑色の斑点のような汚れ、これ、ネガに、カビが付いているのかも・・・との事

32.久々にネガから写真プリントしようと思ったきっかけは、この番組でした。爆報ザフライデーでの特集

33.ザ・ベストテンにスポットライトで、デビュー曲「ファースト・デイト」を歌唱。

34.「8時だよ!全員集合」で、第二弾シングル、「リトル・プリンセス」を歌唱するシーンも登場。

35.そして、衝撃的な出来事もボヤかさず、紹介されました。
本当に、もったいないと、当時、思いました。自分も、当時の事は、リアルタイムで
詳細まで、記憶しており、現場の事務所前にも、行きました。本当に、悲しかったです。

36.Lサイズでは、何とか見られた写真も、A4サイズに引き伸ばすと、ボケボケです。
被写体は、「チャゲ&飛鳥」のお二人。チャゲさん、まだ、帽子とサングラス前の貴重な時代の写真。
自分は、撮影した記憶が、全くなかったのに、ネガが残っていました。すごいな・・・

37.沖田浩之(おきた ひろゆき)さん。享年36歳
原宿の「竹の子族出身」で話題になり、3年B組金八先生・第二シリーズに出演し、
一気に知名度をあげた歌手&俳優。アニメ主題歌なども手掛けたが、1999年、亡くなる。

福岡市内・「祭り天神」と言うイベントで撮影。昭和58年(1983年)10月9日撮影
1963年1月7日生まれですので、撮影当時は、20歳。
撮影当時は、第10弾シングル「お前にマラリア(1983年8月25日発売。
オリコン最高85位)」を歌っていた時代。

A4に引き伸ばしたものを、カラープリンターで読み取りJPGにしてみました。
やはり、緑色の斑点が、目立ちます。一度、ネガをCDデータ化して、その後、画像ソフトで
斑点部分を消すような処理をすれば甦るかも・・・と言われましたが、相当、手間かかります

38.岩崎良美(いわさき よしみ)さん。
宮地嶽神社でのKBCラジオの公開録音か、公開生放送の時に撮影。
昭和58年(1983年)10月10日、撮影。
この公開放送には、他に、沖田浩之さん、松居直美さんも登場。3名の豪華ゲスト。
撮影当時は第14弾シングル「月の浜辺(1983年7月21日発売。オリコン最高47位)」を歌っていた
時代。この1年程前から、尾崎亜美さんの作詞・作曲の作品をシングルで発売する機会が増えており
イメージチェンジを図っていた時代。(月の浜辺も尾崎亜美さんの作品)
そして、この直後、10月21日に第15弾シングル「オシャレにKiss me(オリコン最高68位)」を
発売する直前と言う時代。(オシャレにKiss meは、作詞・売野雅勇、作曲・山川恵津子) 
アニメ作品として、代表作となる「タッチ」「愛がひとりぼっち」が誕生するのは、1985年。

39.中森明菜さん。選んだ写真、ピントが甘かった・・・違うショットを探してみます
昭和58年(1983年)10月16日、長崎県の放送局の公開放送で撮影。
NBCホールか、又は、長崎市民会館だと思います。

40.中森明菜さん。左の写真と同じ日に、同じステージで撮影。
衣装替えして、登場。当時、「禁区」と言う作品が、大ヒット中。当時の「禁区」の衣装を着て、
「禁区」を熱唱中の明菜さん。被写体が左に寄り過ぎていますが、仕方ありません。

41.岡田有希子さん。享年18歳。
昭和59年(1984年)4月2日 福岡・全日空ホテル、3階 飛鳥の間 で撮影。
レコード・デビューが、4月21日だったので、この日のイベントは、デビュー前イベント。
この約2年後に亡くなるとは・・・

42.チャゲ&飛鳥さん。
まさか、撮影しているとは、思いませんでした。
昭和58年(1983年)3月30日撮影。
ラジオ番組の公開録音だったと思います。

ピントは甘いので、厳密に言えば、「ピンボケで、撮れていない写真」です。

当時のチャゲ&飛鳥さんは、第7弾シングル「北風物語」(オリコン最高27位)をリリースしていた時代。
ここまでの大ヒット曲は、第3弾シングル「万里の河」(オリコン最高6位)のみ。

その後、しばらく、ベストテン入りした作品が、なかった。
次のヒット曲「モーニング・ムーン(オリコン最高11位)」が生まれたのは、1985年2月。
「SAY YES」のメガヒットが生まれるのが、1991年7月。

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